Horapedia

2005年06月28日

郵政民芸化 -Horapedia

郵政民芸化
出典: フリー百科事典『ホラペディア(Horapedia)』

概要
郵政民芸化(ゆうせいみんげいか)とは、日本における、郵便事業、簡易生命保険事業、郵便貯金事業の郵政3事業の民芸化政策を言う。
小泉純一郎内閣が掲げる重要施策の一つであり、小泉首相自身も「改革の本丸」であると主張している。
郵政事業の多角化の一環として、全国の郵便局に民芸品の販売・PRなどを行わせることが目的である。
国鉄、電電公社、専売公社の民営化を上回る戦後最大の改革とも言われ、その意図の理解し難さも戦後最大級との指摘もある。
しかし、民芸品の定義が極めて曖昧であることや、国家が特定産業に肩入れすることの是非などが問題視されており、野党はもとより、自由民主党内のいわゆる「郵政族」(郵政事業懇話会)からも激しい抵抗がある。
また、民芸品に誇りを持つ生産者らも、国の援助を受けることをよしとしない姿勢を見せ始めており、場合によっては倒閣に至る可能性もあると言われるなど、政治問題化しつつある。

仮に郵政民芸化が実現した場合の懸念として、民芸品の在庫不良が発生した場合の損失補てんは誰が行うのかという点が指摘されている。
そうした場合、結局は公的資金が導入されるのでは、といった見方も強く、国民からの不信感も根強い。
また、郵便貯金が金融破綻に陥った場合に、現金の代わりとして民芸品が現物支給される危険性も指摘されている。


民芸化の具体策
郵政民芸化の具体的な施策については、以下の案が検討されている。
・全国郵便局における民芸品の直販
・郵便貯金の利子の代替品として、民芸品を現物支給
・ゆうパックを用いた、民芸品の全国発送
・ポスト・はがき・切手等に地元の民芸品を使用

反対派の主張
いわゆる郵政族を初めとする、郵政民芸化法案反対派の主張は、以下のように集約できる。
・民芸品の需要に対する疑問
・あえて郵政と結びつける意味はどこにあるのか(地方交付金ではいけないのか)
・利子の法的意味から見ても、民芸品は不適格


at 21:30|Permalink

2005年06月24日

電化男 -Horapedia

電化男
出典: フリー百科事典『ホラペディア(Horapedia)』

電化男(でんかおとこ)とは、インターネットの掲示板サイト5ちゃんねるに書き込まれた、実話に基づく(とされる)サスペンス・ホラーである。
この名称は、投稿した人物のハンドルネームに由来する。

エピソードの概要
2004年3月14日、5ちゃんねるの独身男性板に書き込まれた「かでんうるとこ たのむ」という助けを求める書き込みが発端である。
彼は電車の中で酔っ払いに絡まれた女性を助け、そのお礼に、まずシャープのワイド液晶テレビ「アクオス」が届けられたという。
男性は「電化男」という固定ハンドルで書き込み、女性を「アクオス」と呼んだ。
その後もアクオスからのプレゼント攻勢が続いたが、贈られた品物は全て電化製品であった。
電化男は、贈り物を止めようとしないアクオスを懸命に説得しようとするが、アクオスは聞く耳を持たない。
そうしている間にも、続々とプレゼントである電化製品が増殖していき、電化男の住まいである1Kルームは崩壊の危機を迎える。
このままではマンションを追い出されかねないため、電化男は5ちゃんねるの独身男性板に助けを求めたのである。
これに対して女性も含む他の参加者(スレ住人)から様々なアドバイスが寄せられ、そのうちの「ヤフオクで売ればよくね?」という提案を、電化男は実行に移す。
このプランは一見うまく行くかのように見えた。しかし、プレゼントをオークションに出品していたことがアクオスにばれてしまう。
激怒したアクオスは、電化男に出品させないように見張るという口実のもと、無理やり同棲を始めてしまう。

その間もますます増える電化製品が、次第にマンションの下の階を圧迫し始め、ついに管理人から賃貸借契約を解除され、退去を命じられるという事態に発展する。
意を決した電化男は、勇気を奮って、アクオスに「どうか出て行って欲しい」と告げる。
電化男の言葉に、アクオスは凄惨な笑みを浮かべ、「これで終わりと思わないことね」という捨て台詞を残して、電化男の下を去った。

スレ住人たちは約2か月の間「電化男」を応援し、その報告を待ちわび、2人がどうなるかと固唾を飲んで見守っていたが、5月9日、「電化男」から「うまく別れることが出来た」という書き込みがあった。
掲示板には多くの祝福のメッセージが寄せられた。

電化男は、アクオスから無事逃れることが出来たように思われた、その1ヶ月後のことだった。
電化男のマンション・実家・職場、その全てに膨大な量の電化製品が届けられたのである。
しかも、注文者の名義は「電化男」のものとなっていた。アクオスの悪夢は、未だに去っていなかったのである。

呆然と荷物の山を眺める電化男に、一通の電報が届けられた。
差出人は、アクオス。
そこにはたった一行、こう書かれていた。

「溢れ出る愛を込めて アクオス」

電化男の助けを求める書き込みは、その後も暫く続いていた。
しかし、2004年6月19日「くる電化製品がまたくるくるくるクルクルアクオスがくるアクオスがdsヴぉ;あふじこ;」という書き込みを最後に、彼は姿を消した。
電化男がどうなったのか、知る者は誰もいない。

書籍化
単行本『電化男』は、2004年10月22日に角川ホラー文庫から発売された。
この書籍は、3月14日から6月19日までの電子掲示板の書き込みの様子を掲載している。
執筆は現代ホラー小説の大家、貴志祐介が担当し、101万500部を売り上げた。

映画 『電化男』
2005年7月19日より、東宝系で上映。監督:中田秀夫。主題歌はビッグカメラの『ビッグカメラサウンドロゴ』。
アクオスが主にビッグカメラを利用していたことにちなむ。

キャスト
電化男:佐野史郎
アクオス:戸田恵子
酔っ払い:津川雅彦

批判
一般的には「またーりとした匿名掲示板には珍しい、心凍るエピソード」と捉えられている『電化男』の物語であるが、発祥の地である5ちゃんねるの独身男性板では以下のような厳しい批判があり、事実かそうでないかの議論が過熱している。

創作説
5ちゃんねるの該当板のスレでは早くから「電化男」に対する以下のような疑問が挙げられていた。

・アクオスの液晶テレビ20万円以上はする商品であり、そのような高価なプレゼントをいきなり贈ったことは不自然ではないか
・「アクオス」の人物像が、まるでホラー小説のキャラクターのような、現実には居そうにないタイプに見える
・電化製品の写真のアップがない

これらから「電化男」の書き込みは実話ではなくフィクションではないかという説も根強く主張されてきた。

電化男陰謀説

単行本刊行後の漫画化、映画化なども、急展開で進められている。
映画化はクランクインからロードショーまで2か月というスピードであり、漫画化は5誌並行掲載と、単なるブームとしては勢いが強すぎる展開である。
そのためか、ビッグカメラのイメージを下げたいヨドバシカメラが仕掛けたのではなどといったブームを煽っている仕掛け人がいるのではないか、という見方もある。


at 19:59|Permalink

2005年06月18日

ドーナツ論争 - Horapedia

ドーナツ論争
出典: フェイク百科事典『ホラペディア(Horapedia)』

ドーナツ論争(どーなつろんそう)は、1990年代に行われた論争。
カレル・シュミットによって問題提起された。


1992年、ドイツの哲学者カレル・シュミットが、論文「ドーナツの空間学的認識における存在論」中において、「穴の開いていないドーナツは、ドーナツと呼ぶべきではない」と主張したことに端を発する論争である。
カレルは「ドーナツの存在の本質は、その中央部の空間と密接不可分であり、これを持たないドーナツは単なる洋菓子でこそあれ、ドーナツの範疇に含まれない」とし、純粋存在としてのドーナツを再定義した。

カレルの主張に対し、フランスの経済学者ゾレール・ミラが、論文「ドーナツの穴の存在認識の不可能性」中で「ドーナツの穴は単なる空間として見るべきであり、これはドーナツの本質に影響を与えない」と反論し、いわゆるドーナツ論争が勃発した。
この論争は、やがてドイツ・フランス両国の哲学界全体を巻き込む大論争へと発展し、近代哲学史上有数の規模の論争となった。
論争の後半では、ミスタードーナツ社も参戦し、商業的色合いが濃くなるという特徴も見られる。

ゾレールの主張に対し、カレルら(後に純粋ドーナツ学派と呼ばれる)は「ドーナツの穴は、ドーナツを食べた瞬間に消失する。ゆえに、この穴はドーナツに特有の空間であって、単なる空間とは違う」と再反論した。
ゾレールによれば、ドーナツの穴は、ドーナツの存在と完全に同調した、ある種の特殊空間なのである。
ドーナツが存在し続ける限り、穴はそこにある。しかし、食べてしまった瞬間、ドーナツの穴は消失する。
ゾレールは、この消失にこそ、ドーナツの穴の特質と、ドーナツそのものの本質を見出すのである。

他方、カレルらいわゆる現実ドーナツ学派の主張はこうである。
存在としてのドーナツは、あくまでも「物質的」部分に限られる。すなわち、食べることの出来る部分だけがドーナツである。
従って、食べることの出来ない「穴」は、ドーナツとは完全に無関係であり、考慮するに値しないことになる。
現実のドーナツとは、食べられなければ意味が無いのであり、これが「現実ドーナツ学派」と呼ばれる所以である。

論争は、当初純粋ドーナツ学派と現実ドーナツ学派の全面対決という形態を取っていた。
しかし、後に両派に属さない新学説も続々と登場し、論争は混乱を極めた。

新説の中で、特に有力とされているのが「主体的ドーナツ学派」である。
これは、フランスの法学者ミッテラン・アデールが論文「曖昧なドーナツとフランスの私」の中で提唱したものである。
ミッテランによると、ある菓子がドーナツであるかそうでないかは、個人の主観に極めて依存する。
ドーナツの客観的定義付けは、事実上不可能であり、個人による定義にゆだねるべきだ、と主張するのである。
この説は一般大衆からの強い支持を受けたが、純粋・現実ドーナツ学派からは「日和見主義的である」と痛烈な批判を浴びた。

現在、ドーナツ論争は下火となっているが、完全に終結したわけではなく、今も学説の対立は継続している。
わが国では、京都大学の木賀峰良雄教授が、「美味なるドーナツこそドーナツである」と主張し、味覚ドーナツ学派と呼ばれている。
しかし、この味覚ドーナツ学派を支持する学者は少なく、哲学界では異端説に属すると言って良いであろう。

ドーナツ論争は、迷走するポストモダン社会における理論の加速と暴走を象徴した出来事であると言えよう。
ドーナツに関するグランド・セオリーの不存在が、こうした混沌とした論争を招いたとも言われているが、人々がこれまでドーナツという菓子の特異性に盲目であったという事実があることを忘れてはならないだろう。


at 15:06|Permalink
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