2005年06月18日

ドーナツ論争 - Horapedia

ドーナツ論争
出典: フェイク百科事典『ホラペディア(Horapedia)』

ドーナツ論争(どーなつろんそう)は、1990年代に行われた論争。
カレル・シュミットによって問題提起された。


1992年、ドイツの哲学者カレル・シュミットが、論文「ドーナツの空間学的認識における存在論」中において、「穴の開いていないドーナツは、ドーナツと呼ぶべきではない」と主張したことに端を発する論争である。
カレルは「ドーナツの存在の本質は、その中央部の空間と密接不可分であり、これを持たないドーナツは単なる洋菓子でこそあれ、ドーナツの範疇に含まれない」とし、純粋存在としてのドーナツを再定義した。

カレルの主張に対し、フランスの経済学者ゾレール・ミラが、論文「ドーナツの穴の存在認識の不可能性」中で「ドーナツの穴は単なる空間として見るべきであり、これはドーナツの本質に影響を与えない」と反論し、いわゆるドーナツ論争が勃発した。
この論争は、やがてドイツ・フランス両国の哲学界全体を巻き込む大論争へと発展し、近代哲学史上有数の規模の論争となった。
論争の後半では、ミスタードーナツ社も参戦し、商業的色合いが濃くなるという特徴も見られる。

ゾレールの主張に対し、カレルら(後に純粋ドーナツ学派と呼ばれる)は「ドーナツの穴は、ドーナツを食べた瞬間に消失する。ゆえに、この穴はドーナツに特有の空間であって、単なる空間とは違う」と再反論した。
ゾレールによれば、ドーナツの穴は、ドーナツの存在と完全に同調した、ある種の特殊空間なのである。
ドーナツが存在し続ける限り、穴はそこにある。しかし、食べてしまった瞬間、ドーナツの穴は消失する。
ゾレールは、この消失にこそ、ドーナツの穴の特質と、ドーナツそのものの本質を見出すのである。

他方、カレルらいわゆる現実ドーナツ学派の主張はこうである。
存在としてのドーナツは、あくまでも「物質的」部分に限られる。すなわち、食べることの出来る部分だけがドーナツである。
従って、食べることの出来ない「穴」は、ドーナツとは完全に無関係であり、考慮するに値しないことになる。
現実のドーナツとは、食べられなければ意味が無いのであり、これが「現実ドーナツ学派」と呼ばれる所以である。

論争は、当初純粋ドーナツ学派と現実ドーナツ学派の全面対決という形態を取っていた。
しかし、後に両派に属さない新学説も続々と登場し、論争は混乱を極めた。

新説の中で、特に有力とされているのが「主体的ドーナツ学派」である。
これは、フランスの法学者ミッテラン・アデールが論文「曖昧なドーナツとフランスの私」の中で提唱したものである。
ミッテランによると、ある菓子がドーナツであるかそうでないかは、個人の主観に極めて依存する。
ドーナツの客観的定義付けは、事実上不可能であり、個人による定義にゆだねるべきだ、と主張するのである。
この説は一般大衆からの強い支持を受けたが、純粋・現実ドーナツ学派からは「日和見主義的である」と痛烈な批判を浴びた。

現在、ドーナツ論争は下火となっているが、完全に終結したわけではなく、今も学説の対立は継続している。
わが国では、京都大学の木賀峰良雄教授が、「美味なるドーナツこそドーナツである」と主張し、味覚ドーナツ学派と呼ばれている。
しかし、この味覚ドーナツ学派を支持する学者は少なく、哲学界では異端説に属すると言って良いであろう。

ドーナツ論争は、迷走するポストモダン社会における理論の加速と暴走を象徴した出来事であると言えよう。
ドーナツに関するグランド・セオリーの不存在が、こうした混沌とした論争を招いたとも言われているが、人々がこれまでドーナツという菓子の特異性に盲目であったという事実があることを忘れてはならないだろう。


at 15:06│ Horapedia 
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